第2章 — 三つの時代: プロンプトからハーネスへ
田中さんの年表
ユウキのチームに新しいメンバーが加わった。AI 研究会のリーダー、田中さんだ。ユウキが「ハーネスエンジニアリングって何ですか?」と聞くと、田中さんはホワイトボードに年表を書き始めた。
「ハーネスを理解するには、3つの時代を知る必要がある」
第1の時代: プロンプトエンジニアリング(2022-2024)
2022年、Google の研究者が「Think step by step(段階的に考えよ)」と指示するだけで、AI の推論精度が劇的に向上することを発見した。Chain-of-Thought プロンプティングの誕生だ。
同年11月、ChatGPT がリリース。「上手に質問すれば、AI はもっといい答えを返す」——何百万人がこの事実に気づいた。
主要テクニックの進化
| 年 | テクニック | 説明 |
|---|---|---|
| 2022 | Chain-of-Thought | 「段階的に考えて」で推論精度向上 |
| 2023 | Few-Shot Learning | 例を見せてパターンを学ばせる |
| 2023 | Role Playing | 「あなたはセキュリティ専門家です」 |
| 2024 | 構造化プロンプト | XMLタグで構造を明示 |
プロンプトの限界
しかし、プロンプトを工夫するだけでは解決できない問題が見えてきた:
- 長いタスクの管理 — プロンプト1つでは複雑な開発作業を管理できない
- 一貫性の欠如 — 同じプロンプトでも毎回微妙に異なる出力が返る
- 検証の不在 — AI の出力が正しいかどうかを確認する仕組みがない
- ツール連携の壁 — AI をデータベースや API に接続する標準的な方法がない
INFO
プロンプトエンジニアリングは「質問の仕方を工夫する」技術。しかし AI が本格的に仕事で使われるようになると、質問だけでなく「AI の周りの環境全体」を整える必要が出てきた。
第2の時代: コンテキストエンジニアリング(2025)
2025年6月、Shopify の創業者 Tobi Lutke が X でこう発言した:
INFO
「コンテキストエンジニアリング — それはタスクが LLM によって解決可能になるよう、すべてのコンテキストを提供する技術だ」 — Tobi Lutke, Shopify CEO
プロンプトとコンテキストの違い
| 観点 | プロンプトエンジニアリング | コンテキストエンジニアリング |
|---|---|---|
| 焦点 | 質問の仕方 | AI に与える情報全体 |
| 範囲 | 1つのメッセージ | コンテキストウィンドウ全体 |
| 問い | 「何と聞けばいいか?」 | 「AI は何を知っている必要があるか?」 |
| レベル | メッセージレベル | システムレベル |
コンテキストの5要素
- 指示(Instructions) — AI の振る舞いを決める基本ルール
- 外部知識(External Knowledge) — プロジェクト固有の情報(設計書、API 仕様)
- メモリ(Memory) — 過去のやり取りから得た学習内容
- ツール情報(Tool Definitions) — AI が利用できる外部ツールの説明
- 状態(State) — 今のタスクの進捗状況
RAG — コンテキストを動的に構築する技術
RAG(Retrieval-Augmented Generation)は、ユーザーの質問に関連する情報をナレッジベースから検索し、AI のプロンプトに注入する技術だ。
RAG により、ハルシネーション(AI の幻覚)が 40〜71% 削減されるという報告がある。
MCP — AI にツールを渡す標準プロトコル
2024年11月、Anthropic が MCP(Model Context Protocol) を発表。AI と外部ツールの接続を標準化し、N×M 問題を解決した。
コンテキストだけでは足りない
しかし田中さんは付け加えた。
「コンテキストを整えるだけでは、信頼できるシステムは作れない。AI が何を知っているかを整えるのがコンテキストエンジニアリング。でも、AI がどう振る舞うかを制御するには、もう一段上のレイヤーが必要なんだ」
第3の時代: ハーネスエンジニアリング(2025〜)
3つの比喩
田中さんは3つの時代の違いをこう例えた:
- プロンプトエンジニアリング — メールの本文を書く技術
- コンテキストエンジニアリング — メールに添付ファイルを付ける技術
- ハーネスエンジニアリング — オフィス全体を設計する技術
あるいは:
INFO
「モデルは CPU。ハーネスは OS」——CPU の性能がどれだけ高くても、OS がなければコンピュータは使い物にならない。
なぜ今なのか
- モデルは汎用品化した — Claude、GPT、Gemini の能力差は縮まりつつある。差別化の源泉はモデルではなく、モデルの周りのインフラにある
- デモから本番への壁 — デモで動く AI エージェントを作るのは簡単。本番で信頼性をもって動かすのは全く別の話
- 学術的な裏付け — LangChain の実験で、ハーネスの変更だけでベンチマークスコアが 52.8% → 66.5% に向上(13.7ポイント改善)。モデルは同じ、変わったのはハーネスだけ
ハーネスの構成要素
衝撃の数字
WARNING
MBZUAIの研究によると、Claude Code の本番コードの約 98.4% がハーネスインフラ(権限、コンテキスト管理、サンドボックス、ツールルーティング、リカバリ)であり、AI 判断ロジックはわずか 1.6% に過ぎない。
3つの時代の統合
3つの時代は「置き換わった」のではなく、積み重なった。
良いプロンプトを書く力は今も必要だ。適切なコンテキストを設計する力も必要だ。その上に、ハーネスという「仕組み」が品質を保証する。
ユウキは田中さんの話を聞いて、自分がどの段階にいるかを理解した。CLAUDE.md は「コンテキストエンジニアリング」、Hooks は「ハーネスエンジニアリング」——今やっていることには、歴史的な文脈があったのだ。
次の章では、ハーネスの全体構造を体系化した「5層モデル」を学ぶ。